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今日は朝10時から夜10時まで仕事。
ぬー。
東洋町まで行ってきた。車で片道2時間半。往復5時間。高知の東海岸を走破。
休みがまるごとつぶれた。
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でも、明日がある。休みはまだもう1日あるじゃないか。
遊ぶぞ。
そう、遊ぶに決まっている。
明日は8時半さ。8時半から遊ぶ。
てことは7時半だ。7時半に起きよう。
目指すは、うん。徳島。
なんとなく四国八十八か所のどっかの寺にあるというロープウェーに乗ろうと思う。いや、思ふ。
そして近場の寺も回ろう。回らふ。
そしてたぶん東洋町を通ってずっと高知の東海岸を抜けて帰ってくることになる。
なに、このデジャブ≪既視感≫。
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昨日突発的に入った仕事は、2週間前から計画してた遊びを、一瞬で、ただめんどくさいことこの上ないだけの「こなし行事」にしてしまった。
嗚呼。めんどくせ。
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小説を書こうかな。そろそろ。
書くことなら、いくつかある。もう何年も前から全部「あとは書くだけ」の話だ。
全部に一貫してるのは、たぶん「ぼく」が語ることを信用するなかれ。
ということだろう。ある人にとって真実でも、それは本当に真実なのか?
嘘を嘘とも思わないでつける人間もいるらしい。また、たとえ当事者でも「見えてない」ことって多い。
とても美しい話に読めるのに、ほんとはとても独善的であるとような。
そんな一人称の落とし穴のある小説を書きたい。
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というか、きっとぼくも、きみも、誰のことも信じてないよってことなんだろう。
だって、わかんないからね。何もかも。
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そういえば、一人称複数形って面白い。
英語で「あなた」も「あなたたち」も同じ「YOU」だ。
一対一であっても、一対複数であっても基本的に一人一人に対し、「YOU」と呼びかけているってイメージだろうか。言われた誰もが、この「YOU」とはほかならぬ自分のことだと思っているのかもしれない。
それに対し、「WE」の場合はどうだろう。
複数になって「I」から「WE」に変換されたとき、はたしてそれは日本語でいう「わたしたち」と同じなのだろうか。
ぼくには、「WE」という言葉には「わたしを代表とする、わたし以外の何者かとの集合体」、という意識があるように思う。使う人がどう思っているかは別として、「I」でも「Is」でもないって、言語の成り立ちとして、そういうことなのではないだろうか。
だが、そうなってくると日本語の「わたしたち」とは何なのだろう。
「あなたたち」は一人一人の「あなた」が集まってできている。「あなたたち」を構成するのは、複数の「あなた」だ。
翻って「わたしたち」を構成するのは誰だ。
複数の「わたし」でないとおかしくないだろうか。
そうやって眺めた時の、
「わたしたち」
という言葉が面白い。
それをかたち作るのは複数の「わたし」。
そういう意味で「わたしたち」という言葉を発する感覚を想像する。
「わたしS」としての「わたしたち」。
とでもいうような。
まあ、でも、ある意味、「わたし以外の何か」を自分と混同したり、同一視したり、投影したり。
結局「自分」の想像力の及ぶ範囲でしか他人など理解できない・しないのだから。
ぼくもきみも、彼も、彼女も結局ぼくの中のきみで彼で、彼女なんだろうから。
だから、行きすぎると言えるのだろう。
「わたしたち、愛し合ってます」
とか。
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オチがない。
まあ、いつものことでして。
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