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あんまり更新できないまま、今月も終わろうとしている。
「これ書こうかな」とか思うことが、ここ最近いくつかあったのに結局書けていない。
まあ「何々があった、楽しかった」というよりは、自分のなかの思いつきとか、変な発想とかだ。
本読む機会が多かったせいかもしれない。影響受けやすいですね。
でも「忙しい」とばっかり書いて、特に書くこともなかった最近とは違う波長になってきた気がする。個人的には、そういうときのほうの日記の方が好きだ。
ただ、それは、あれだ。一人が長いときの波長だ。
そうして、これだけ書いているが、その当の「面白いと感じた話」はさっぱり思い出せないのだった。
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宮沢章夫さんの本を2冊も買ってしまった。
「チェーホフの戦争」
「資本論も読む」
チェーホフもマルクスもまったく興味がないのに購入したのは、一重に宮沢章夫さんの文章が好きだからだ。
「だめ」であることを愛でる、肯定する姿勢というか。
きっと、バブルから90年代前半にかけてのサブカルチャーであり、いまメインカルチャーに近付いているところの、みうらじゅんとか、いとうせいこうとか、しりあがり寿とか、とか。
つまりもはや、モードではない気がするけれど。
それでも、あの頃に端を発している「だめ」で「だらだら」した感じというのは、表現として根強く支持を受けているように思う。
少なくとも、ぼくは根強く好きだ。というか、結局その世代であり、そこに帰っていってしまうということなのかもしれない。
「資本論も読む」は、宮沢さんが「わからない、わからない」と言いながら資本論と格闘していく本だ。
いくたの解説書があり、専門家がいながら、経済学には素人の劇作家が煩悶しながら資本論を読み進めていく。ただそれだけの本が、本として成立しているのかはぎりぎりのラインだ。たぶん「どうみてもアウト」という評価を下す読者もいるだろう。
ただ、ぼくは思う。
だめだだめだ、と言いながら、宮沢さんは劇を作り、エッセイを書き、小説を書いている。
全然だめじゃない。
「だめ」を表現することは難しい。
それは、「表現する」という、本当に「だめ」な人にはできないことをする行為だからだ。
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こないだTVで
「シュレッダーにかけた書類をトイレットペーパーに再生できる画期的な機械」
というのが紹介されていた。
そしてその機械の第1号が地元の市役所に納品されたのだそうだ。職員のシュレッダーごみを再利用して、市民にトイレットペーパーを無料配布するらしい。
これはあれだ。
「まさにお役人が闇にほうむったものを、地域住民に尻拭いさせるということですね!」
と、職場でこの話になったとき(補助金で何買おかって話)言わないだけの知性が残っていてよかった。
疲れがピークだとね。
いろいろおかしなこと言いだすからね。我知らず。
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